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女性初の弁護士だった三淵嘉子さんとは?NHK連続テレビ小説のモデルの正体を解説

公開日2024/04/27 更新日2024/05/07


2024年4月からの NHK朝の連続テレビ小説で、日本初となる女性弁護士の活躍を描いたドラマ「虎に翼」が放送されています。今回の記事では、主人公のモデルになった三淵嘉子(みぶちよしこ)さんの生涯について紹介します。

開明的な家族に生まれた三淵嘉子

三淵嘉子さん(以下敬称略)は1914年(大正3年)11月13日に、台湾銀行に勤務していた武藤貞雄の長女としてシンガポールで誕生しました。父親は非常に開明的な人物で、政治や経済を理解することと、専門的な仕事に進むために勉強することを、幼いころから嘉子に説いていたそうです。


現在の東京都渋谷区で育った嘉子は、父親の影響を強く受けて、東京女子師範学校附属高等女学校(お茶の水女子大附属高校の前身)を卒業後、法曹の道に進むことを決意します。

法律を学ぶ険しい道のり

1933年(昭和8年)に弁護士法が改正され、女性も弁護士になることが可能になりました。当時の制度は司法科試験に合格後、1年半弁護士試補として修習を受けてはじめて弁護士登録される仕組みでした。試験を受けるには専門の学校もしくは大学を卒業する必要がありましたが、女性が入れる学校は極めて限られていました。


嘉子はほぼ唯一のルートとして、明治大学専門部女子部法科を経て同大法学部に編入し、卒業後の11月に高等文官試験司法科に合格します。合格者242名中で、女性はわずか3名という狭き門でした。しかし当時の日本は日中戦争開戦直後であり、それからの数年間は彼女も苦しい生活を強いられます。

日本初、女性弁護士の誕生

太平洋戦争開戦直前の1940年(昭和15年)6月、嘉子は第二東京弁護士会の所属で弁護士登録します。日本ではじめての女性弁護士が誕生することとなりました。ただし戦争中はほとんど仕事がなく、母校の明治大学の教壇に立つことで生活を支えていたようです。この間に結婚と出産も経験しています。


終戦後は裁判官を目指すため、当時の司法省に裁判官採用願を提出しますが許可されず、やむなく司法省民事部で働きながら裁判や立法について学ぶことになりました。しかし本人談では、当時の職場はリベラルな人が多く、女性として不当な扱いをされることはなかったそうです。

女性初の裁判所所長にも就任

嘉子のキャリアに光がさしたのは1949年(昭和24年)のことで、まずは東京地裁民事部の判事補に採用されます。その後アメリカで半年間裁判所を視察し、帰国後は名古屋地裁で初の女性判事として任命されました。このころは主に、民事裁判と少年審判を担当していたようです。


さらに1972年(昭和47年)には新潟家裁で、女性として初の裁判所所長に就任。浦和家裁所長、横浜家裁所長を歴任して、1979年(昭和54年)に定年退官しました。それからは弁護士として活躍しながら、女性や少年の人権を守る活動にも尽力し、1984年(昭和59年)5月28日に69歳で亡くなりました。

まとめ

嘉子は生前ある新聞のインタビューに対してこう答えています。「弁護士という職業としてというよりは、不幸な方々の相談相手として少しでも力になりたいと思います。どんな道を歩むにしても、世のため、人のために自己の最善を尽くしたいと思います」これは現代の法曹界にも響く言葉ではないでしょうか。


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