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新紙幣に採用された人物の紹介 ~北里柴三郎~

公開日2019/07/12 更新日2019/07/13
新紙幣に採用された人物の紹介 ~北里柴三郎~

新千円札の肖像に選ばれた北里柴三郎といえば、ペスト菌の発見や破傷風の治療法を開発するなど、伝染病の予防や細菌学の発展に大きく貢献した医学博士であることは、多くの人がご存知でしょう。ただ、北里柴三郎には、医学者としての顔のほかに、別の側面もあったのです。

今回は、北里柴三郎についてご紹介します。

世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功

北里柴三郎の名を一躍世界に知らしめたのは、ドイツへ留学していた1889年に、世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功し、翌年には破傷風菌の毒素を中和する抗体を発見して“血清療法”を開発したことです。

伝染病の有効な原因療法がまだなかった時代、この血清療法は、病気の治療や予防につながる画期的なものでした。血清療法はジフテリアにも応用できることから、一躍国際的な医学研究者として知られるようになりました。

北里は、東京医学校(現・東京大学)を卒業すると、内務省衛生局(現・厚生労働省)に入り、1886年からドイツのベルリン大学へ留学します。炭疽菌の純粋培養や結核菌の発見で知られる病原微生物学研究の第一人者、ロベルト・コッホの元で研究に打ち込んだそうです。

ちなみに、ドイツ留学時代に研究に没頭する北里の姿は、「来る日も来る日も研究に没頭し、下宿と教室の間の道以外知らなかった」というエピソードが今に伝えられているほどです。

コッホの弟子・ベーリングと取り組んだジフテリアの血清療法の研究は、ノーベル賞候補にノミネートされましたが、受賞したのはベーリングでした。もし北里が受賞していたら、日本人ノーベル賞第1号は、北里だったかもしれないのです。

北里の元から巣立った多くの医学研究者たち

北里がドイツから帰国したのは1892年です。福澤諭吉らの援助で、私立伝染病研究所を設立し、伝染病の予防と細菌学の研究に打ち込みますが、この私立伝染病研究所は、現在の東京大学医科学研究所の前身であり、1899年に国立伝染病研究所となりました。

また、1918年には、日本初の結核療養専門病院「土筆ヶ岡養生園」(現・北里大学北里研究所病院)を設立しています。伝染病予防と細菌学の研究に取り組む一方、後進の指導にも力を注いだことでも知られています。

ハブ毒の血清療法を開発した北島多一、赤痢菌を発見した志賀潔、サルヴァルサン(梅毒の特効薬)を開発した秦佐八郎、寄生虫が媒介する病気の研究で目覚ましい成果をあげた宮島幹之助、黄熱病の研究で有名な野口英世など、北里の元から多くの医学研究者が育っています。

テルモ創設者の1人

伝染病の予防と細菌学の研究で多くの功績を残し、“近代医学の父”と呼ばれる北里ですが、もう一つの顔が、体温計のメーカーとして知られるテルモの創設者の1人だったということです。

当時、体温計はドイツからの輸入に頼っていました。しかし、第一次世界大戦の影響で輸入品が入らなくなったことから、国産で良質な体温計をつくろうという動きが医師たちから起こりました。

東京医師会の会長が、真っ先に相談を持ち掛けたのが北里です。北里は、「病気を未然に防ぐことが医者の使命」という予防医学への強い思いがあり、国産体温計の必要性を痛感していたといいます。

そのため、テルモの前身である“赤線検温器株式会社”設立趣意書の賛成人として名を連ね、設立総会では議長も務めたそうです。医学研究者が民間企業の設立に奔走する姿に、違和感を覚える人も少なくないでしょうが、国産の体温計が国民医療には必要という予防医学への信念のようなものさえ感じます。

テルモの企業理念は、「医療を通じて社会に貢献」ですが、それは北里の強い思いを受け継いだものということです。

まとめ

新千円札の肖像に選ばれた北里柴三郎は、医学者であり、研究者であり、そして教育者、実業家といろいろな顔を持っていたようです。経理担当者にとっては、元号が平成から令和となり、さらに新紙幣発行されるということで、令和時代は何かと業務が増えることになりそうですが、肖像に選ばれた人の人物像を知ることで、何か仕事や人生についての気付きが得られるかもしれません。

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