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新紙幣に採用された人物の紹介 ~渋沢栄一~

公開日2019/07/10 更新日2019/07/11

政府は、紙幣を20年ぶりに刷新すると発表しましたが、新しい1万円札の図柄には、“日本資本主義の父”と呼ばれる渋沢栄一氏の肖像が選ばれました。渋沢氏の故郷・埼玉県深谷市はにわかに活気づき、渋沢栄一記念館の入館者は6倍も増えたそうです。

では、“日本資本主義の父”と称される渋沢栄一とは、どんな人物だったのでしょうか。

“約500の会社に関わり、同時に約600の社会公共事業にも尽力”

渋沢栄一記念財団のHPによると、渋沢栄一は“約500の会社に関わり、同時に約600の社会公共事業にも尽力した”とあります。

有名なのは、みずほ銀行(第一銀行)や三井住友銀行(第三十二国立銀行)などの金融機関をはじめ、王子製紙、東洋紡、大阪ガス、聖路加国際病院、一橋大学の創設に関わったことです。

また、東京商工会議所の初代会頭でもあった渋沢は、その創立にも深く関わったそうですから、まさに“日本資本主義の父”と呼ぶにふさわしい存在といえるのではないでしょうか。

欧州視察随行で醸成された近代化への意欲

渋沢が生まれたのは1840年(天保11)2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島です。生家は、畑作や藍玉の製造・販売、養蚕を営む農家で、幼いころから家業を手伝っていたようです。

そんな渋沢は、教育熱心だった父親から、手伝いの合間に学問のてほどきを受け、従兄弟の影響で「論語」にも親しむようになっていきます。やがて尊王攘夷の思想を受けるようになり、若気の至りか、従兄弟たちと高崎城乗っ取りの計画を立てたこともあったようです。

渋沢が、後に“日本資本主義の父”と呼ばれるようになったのは、27歳の時に、15代将軍徳川慶喜の実弟・徳川昭武のパリ万博をはじめとする欧州視察に随行員として参加したことがきっかけです。

1年半ほど欧州に滞在し、西欧社会の経済・文化に触れたことで、民業を通じて日本の近代化に貢献する志が醸成されていったようです。

株式会社組織による企業の創設 ・育成に尽力

欧州から帰国した渋沢が、まず取り組んだのが静岡に「商法会所」を設立することでした。その後、明治政府に請われ大蔵省に入省しますが、1873(明治6)年に大蔵省を辞した後は、民間経済人として精力的に活動していきます。

そのスタートが、現みずほ銀行の前身である「第一国立銀行」の創設で、総監役(後に頭取)に就任すると、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を注ぎ、「道徳経済合一説」を説き続けたといいます。

その結果、生涯に約500もの企業、約600もの教育機関 ・社会公共事業に関わり、多くの人々に惜しまれながら1931(昭和6)年11月11日、91歳で生涯を閉じました。

渋沢決定の裏には高度な印刷技術の進化

ところで、これだけの功績がある渋沢ですから、これまでにも何度か紙幣の肖像として候補になったことがあります。1963年には、千円の肖像候補として最終選考まで残りました。

しかし、当時は、紙幣の偽造がしにくい、髭のある人物を選んでいたために、渋沢が選ばれることはありませんでした。

現在は、印刷技術も向上し、髭の無い女性も紙幣の肖像に使えるようになったこともあり、ようやく“日本資本主義の父”が、1万円の肖像として採用されることになったわけです。

もっとも、1902年から1904年にかけて、大韓帝国で発行された第一銀行券の1円、5円、10円券には、渋沢の肖像が描かれていたことがあります。しかし、“一国の紙幣を日本の民間銀行の銀行券を使用するのはいかがなものか”という声が上がり、わずか2年で姿を消してしまいました。

まとめ

渋沢栄一の肖像が新1万円札に決まったことを歓迎する声は、ネット上でも多く見られます。

新紙幣発行にともなう経済効果は1.6兆円ともいわれています。新紙幣発行は2024年とまだ5年も先ですが、すでに新紙幣マネーは動き始めているのかもしれません。

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